記録:父の最後。(その4)
警察署内の小部屋へ戻ると、葬儀屋さんが待っていた。
どうやら、警察署には馴染みの葬儀屋さんが数件あるらしい。
今回のように遺体が運び混まれた際には、後々、搬送の為に働いてくれるのだ。
小柄で物腰の柔らかい中年男性だった。
眼鏡の奥に見える目は、何処を見て良いのか戸惑っているようだった。
明らかに傷ついているだろう人を見るときは、直視出来ないのだろう。
「お母様は無事にこちらに向かわれていますか?」
葬儀屋さんも、こちらに負担の無いだろう会話をポツポツと出してくる。
実家から、ここまでの移動は電車の乗り継ぎだらけだ。
最近は他の鉄道会社が車両を乗り入れているので、乗る電車の見極めが難しい。
母の趣味が「時刻表を調べる」という変わったものであって本当に良かった。
ダイヤの遅れがあったとしても、路線図にはめっぽう詳しいからだ。
行動範囲の狭い高齢者の母だが、確実に警察署までくることは疑わなかった。
姉も気が動転するタイプではないので、とりあえず待っていれば良いだろう。
だが、ここで誤算。
母が警察署の最寄り駅には着いたが、ダンジョンのような構内でタクシー乗り場を
探すのに苦戦してしまうのだ。
結局、母が警察署に到着してから10分で姉が到着した。
遺族が揃ったので、改めて父との対面となる。
私は一足先に会っているので、母と姉がどのような気持ちになるのかを思い、
心が痛んだ。
祭壇のある、父が寝かされた部屋へと入る。
母の押さえていた感情が決壊する瞬間が分かった。
動揺が感情に変わった瞬間だった。
「お父さん、どうして・・。」
父に話しかけていた。
母は、父の体に話しかけることに躊躇なかった。
姉は、父の頭を撫でていた。
「生きてるときは触らせてくれなかったから、いっぱい触っておこう。」
なんなんだろう、この姉のテンションは。
私は父に触るのは怖かった。
その感触がずっと残ってしまうことが辛いと思ったのだ。
それも、冷たい皮膚の感触なんてごめんだ、耐えられない。
姉は度胸と勇気と愛がある。
幼い頃から、この人のそういう所に助けられていた。
母だって、そっと父の頬を触る。
そうやって、現実を受け入れていたのだろう。
私は現実を直視出来ない腰抜けだ。
記録:父の最後。(その3)
父が亡くなった際の状況説明をひととおり済ませ、刑事さんは席から立ち上がった。
「まだ、お母様がいらっしゃっていませんが、お先にお会いになりますか?」
会う?会うのか・・・。
断る事も出来たのだろうが、その場にいる義務感で席を立ち、刑事さんの
後ろに続いて薄暗い廊下を歩いた。
ガラス戸を開けて駐車場へ出ると1月の冷たい風が吹き付けた。
日は既に落ちかけていて、街灯が薄ぼんやりと光っている。
駐車場の奥にある建物の1階。
刑事さんが重そうな鉄製のドアを開けると、室内から明るい光が漏れ出てきた。
部屋の中には、一台のベットと小さな祭壇が置かれていて、簡素な作りではあるけれど、厳かな空気が漂っていた。
ベッドの上には大きな人が寝かされていた。
寝かされているけれど、寝ているわけじゃない。
父は全く気配を感じない、物質になってしまっていた。
刑事さんが顔に掛けられた白い布をめくり、対面をさせてくれる。
ちょっと苦しそうな引きつった表情だった。
顔の筋肉も固そうで、筋張っていて、演技では出来ないだろう顔だった。
「見ていただけると分かるのですが、こちら側が黒くなってまして。」
刑事さんが、皮膚に現れた死斑から、死に至ったのが睡眠中であり、
心臓の急停止であった為だろうと伝えてくれた。
はっきりとは言えないが、事件性は全くみられないよ、と教えてくれたようなものだ。
祭壇にお線香を上げ、手を合わせ、その部屋を後にした。
何だか空虚な感じだった。
父に会いに行ったはずなのに、父に会えなかったような。
父だけど、父じゃなかったと感じた。
まだ、父には会えていないと心から思ったのだ。
父が亡くなったと聞いてから、初めて父に会えない悲しみを感じた。
記録:父の最後。(その2)
夕暮れの警察署は立ち入る人は無く、ひっそりとしていた。
薄暗いロビーからは、署員の人々が働く事務局の電気だけが皓々と見えた。
「すいません、土井様はいらっしゃいますか?」
母から聞いた刑事さんを尋ねると、女性に呼ばれ、1人の男性が連なった机の奥から進み出てきた。
私より一回りくらい年が上だろうか?ベテランの風格が漂っていた。
父の名前を伝えると、刑事さんは多くを語る前に、まず小部屋へと案内した。
確かに、人の死に関わる事件や事故は、ロビーで立ち話とはいかない。
部屋はとても狭く、小さなテーブルと椅子を3つ置いたらいっぱいだった。
私は身分証明証を提示し、住所や連絡先などを書類に記した。
他、これからこの場に駆けつける母や姉についても同様に記す。
「ご本人かどうか、ご確認をお願いします。」
刑事さんがテーブルの上に、父のセカンドバックを置いた。
いつも外出時に持っている鞄だ。
携帯電話や車のキー、見慣れたものが並べられていく。
何となく、父の匂いまで漂ってくるようだった。
「お父様が亡くなったときの状況なのですが・・」
刑事さんの話す、父が亡くなっていたホテルの部屋の状況は、
いつもの父の姿を思い出すほどに、違和感ないものだった。
きちんと歯を磨いた様子があり、持病の薬も飲んだ形跡があった。
脱いだ洋服はきちんとハンガーにかけてあり、枕元に置いた携帯電話は、
丁寧にハンドタオルでくるんでいたそうだ。
間違いなんてあるわけない、何から何まで父らしい。
「お父様は亡くなる前の晩に、知り合いの方と飲みに行っていまして・・。」
父はお酒を飲むのは好きだが、長居するのは好まない人だった。
その為に、お金だけを置いて先に帰ってきてしまうことがよくあった。
この日はいつもより多めのビールと焼酎を飲んだようだが、いつもの如く、遅い時間まで飲むことはせずに、ホテルの部屋へと引き上げたらしい。
「お父様は、ホテルの近くのコンビニに寄って、お酒とおつまみを買ってから部屋にもどられていますね。」
刑事さんの調べは素早かった。
父の行動はすっかり把握されていたし、父が一緒に飲んでいた人も特定され、既に連絡がとられていた。
「お父様は心臓に持病をお持ちだったようですね。」
先に母と電話で話していた刑事さんは、母からの情報で父の死因の可能性を探っていた。
外傷は無く、就寝中に死去。
飲酒量は通常より多く、心臓に病あり。
段々、父の命の尽きた状況が分かってきた。
そうか、人間って物理的に臓器にエラーが起こると死んでしまうんだな。
その命が尽きる数時間前に、県をまたいで車の運転が出来るほど、
体力、判断力はあっても。
コンビニに寄って、買い物して、ご機嫌な気分であっても。
誰に「おやすみなさい」を言うわけでも無い、静かな1人の就寝の後であっても。
命のタイマーみたいなのが切れると、この体は使えなくなってしまう。
死って身近だな。
想像していた死ってもっと怖いものだったな。
記録:父の最後。(その1)
あの日はいつもの土曜日の筈だった。
朝ご飯を作って、洗濯掃除をして、午後には息子とホームセンターへ行く。
息子の飼っているメダカ水槽に、新しいメダカを増やす為だ。
水槽の掃除用に新しい道具も購入して、1月にしては青く澄んだ空の中、
自転車を漕いで家に帰った。
買い物袋の中身をバラしていると、携帯電話が鳴った。
母からだ。
「もしもし。」
「○○、お父さん、死んじゃったっぁ・・。」
歩きながら電話をかけているのか、息が荒い。
「今、警察の人から連絡があって、泊まっていたホテルで亡くなったって。」
「・・・。」
「お父さんは警察に運ばれていて、これから行くところ、担当の刑事さんの名前は・・。」
私は第六感だとか、虫の知らせというものを信じているタイプの人間だ。
うっすらと、ある種の中二病的世界観かもしれないが、その世界は居心地が良い。
だが、こういった人生の重大な局面は突然、前触れも無しにやってくる。
なんの予兆も無しにだ。
「私も直ぐに行くから、場所は?」
父が亡くなったホテルは、実家からは離れた他県だった。
しかし、それは私の現住所と同県同市であった。
母との電話が終わってから、身支度を調えて警察へ向かった。
身支度なんて、何を用意したら良いのかさっぱり分からない。
とりあえずメモ用紙をいつもの鞄に詰め込んだ。
最寄り駅まで行って路線図を改めて見る。
目的地まで5駅、電車の所要時間13分。
近すぎるっ!
父が1人で亡くなったこと、でも生前、実は近くに来ていたこと。
このままでは、私が真っ先に、これからの具体的な出来事に対峙すること。
感情までには上ってこない思いが、脳内をグルグルする。
車中、他県に住んでいる姉とも連絡をとる。
母よりも少し遠い所だが、同じ関東なので2〜3時間内には到着予定だった。
私は到着し、ターミナル駅の構内図を読み解いて、警察署までの最短ルートを探った。
地下からの長い階段を抜けて地上に出ると、既に日は傾き初めていた。
ビルばっかりの駅前で、気持ちはさまよい、空を仰ぐような心境ではなかった。
あの時空を見ていたらと、今になって思う。
空には新月から生まれ出た、細い細い、幼い月がいたはずだから。